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A Private Edition on the Life of Wilhelm Conrad Rontgen (in Japanese)

Authors:

Abstract and Figures

We reviewed the life of W. C. Röntgen, showing the relationship to scientists in the 19th – 20th centuries, referring the progress of gas discharge experiments, and explaining the historical background of Germany at that time. We described in detail not only Röntgen’s famous experiments at 1895 but also a fever after the discovery of the X-ray, conflict with P. E. A. von Lenard after receiving the 1st Novel prize, and Röntgen’s late years.
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6
私家版・レントゲンとその時代
X線分析の進歩 48
Adv. X-Ray. Chem. Anal., Japan 48, pp.6-25 (2017)
私家版・レントゲンとその時代
林 久史
A Private Edition on the Life of Wilhelm Conrad Röntgen
Hisashi HAYASHI
Department of Chemical and Biological Sciences, Faculty of Science, Japan Womens University
2-8-1, Mejirodai, Bunkyo, Tokyo 112-8681, Japan
(Received 6 July 2016, Revised 10 September 2016, Accepted 12 September 2016)
   We reviewed the life of W. C. Röntgen, showing the relationship to scientists in the
19th-20th centuries, referring the progress of gas discharge experiments, and explaining the
historical background of Germany at that time. We described in detail not only Röntgens famous
experiments at 1895 but also a fever after the discovery of the X-ray, conflict with P. E. A. von
Lenard after receiving the 1st Novel prize, and Röntgens late years.
[Key words] Wilhelm Conrad Röntgen, X-rays, History of science, 1895, The discovery of the
X-ray, Anna Berta Ludwig, Nobel prize, Philipp Eduard Anton von Lenard, Gas discharge,
Physics in the classical limit, Ether, Giessen, W. C. Röntgens late years
 レントゲンの生涯について,1920 世紀の科学者との関係や気体放電実験の進歩,そして当時のドイツの
歴史的背景をふまえながら解説した.1995 年にレントゲンが行った有名な実験だけでなく,X線発見後の騒
動,第 1回ノーベル賞受賞後のレーナルトとの対立,晩年のレントゲンについても詳述した.
[キーワード]ウィリアムコンラッドレントゲン,X線,科学史,1895 年,X線の発見,アンナベルタルー
ドヴィッヒ,ノーベル賞,フィリップ・フォン・レーナルト,気体放電,古典物理学,エーテル,ギーセン,
レントゲンの晩年
解 説
日本女子大学理学部物質生物科学科 東京都文京区目白台 2-8-1 〒 112-8681 *連絡著者:hayashih@fc.jwu.ac.jp
1. はじめに
 伊藤整の『日本文壇史』
1に,次のような記
述がある.「私は,ある時代の文士や思想家や
政治家の行動が,みなつながりのあるものと考
え,そのつながりや関係や影響を明らかにする
ことに全力をつくした.また描かれてあること
が私自身の目の中で一つの生きた姿となってと
らえられ,それがリアルなものとして読者に伝
わるように,資料と事実の組み合わせに考慮を
払った.」伊藤整は,このようなビジョンに基
づいて,紅葉や漱石が活躍した明治の日本文壇
を生き生きと描写した.『日本文壇史』を読ん
だとき,「ある時代」を「19 世紀末」「文士や
思想家や政治家」を「科学者」に置き換えて,
特にレントゲンを中心にした「19 世紀末の科
7
私家版・レントゲンとその時代
X線分析の進歩 48
学者の行動が,みなつながりのあるものと考え,
そのつながりや関係や影響を明らかに」し,「一
つの生きた姿」を提示できれば,大学 23
次の物理化学と X線分析の間に,ひと味違った
視点から橋わたしができるように思えた.こう
した試みは教育的に有用なだけでなく,X線分
析の裾野をさらに広げられるとも思った.レン
トゲンの生涯についてはすでにオンラインで入
手可能な日本語の論文もあるが 23
,管見のか
ぎり,レントゲンと他の科学者の関係に着目し
た文献はなかったので,本稿の執筆に至った.
とはいえ,レントゲンが活躍した時代には,物
理と化学の分野に限定しても,著名人は多く,
限られた紙数内で全てを網羅することはできな
い.いきおい,レントゲンと誰との関係を重視
するかについて,筆者の趣味と問題意識が影響
せざるをえなかった.また,史学の素人の哀し
さで,X線に関する記述以外のほとんどを二次
資料に頼った.以上のことをふまえ,本稿を「私
家版」と銘打った.本稿には,中央ヨーロッパ
のいろいろな地名がでてくるので,加藤 2
倣って,レントゲンに関連する地図を Fig.1
示した.
2. 時代背景
 レントゲンが活躍した 19 世紀後半,科学に
おける指導的な地位を占めていたのは,イギリ
ス,フランス,ドイツの 3国であった.イギリ
スは,1837 年に王位についたヴィクトリア女王
が,1877 年にインド皇帝も兼ねるなど,繁栄の
絶頂にあった.しかし科学に目をむけると,当
時は政府による科学研究への支援が行われてお
らず,科学者の就職口,ひいては科学者人口が
極端に少なかった.コンピューターの原形の発
明者として名を残しているチャールズ・バベッ
39 歳 )は 1830 年,『イギリスにおける科学
の衰退とその原因に関する考察』という警告の
書を出している 45
.一方,フランスは 19 世紀
のはじめは科学の様々な分野で主導的な役割を
果たしていたが,1830 年に 7月革命,1848
2月革命が起こるなど,19 世紀中盤から政治
的に不安定な時期が続き,さらに普仏戦争1870
71 年)の敗北により,全体に意気阻喪してい
た.ルイ・パストゥール49 歳 )は 1871 年,『フ
ランス科学についての省察』の中で,1860 年代
のフランス科学の衰退を嘆いている 5
 バベッジやパストゥールの衰退論の背景に
は,彼らに脅威を与えた新興国ドイツの存在が
あった.19 世紀のドイツは 1850 年代から産業
革命の展開期に入り,ビスマルク1862 年から
1890 年までプロイセン宰相)の指揮のもと,プ
ロイセンによるドイツ統一にむけて,軍事的に
も経済的にも急速に発展していた.パストゥー
ルの本が出版された 1871 年は,プロイセン王
Fig.1 レントゲン関連地図
22
Fig. 1
8
私家版・レントゲンとその時代
X線分析の進歩 48
のフリードリッヒ・ヴィルヘルム 1世がヴェル
サイユでドイツ皇帝に即位し,はじめて統一さ
れたドイツ帝国が成立した年であった.
19 世紀のドイツは,科学分野においても急
成長していた.その成長を後押しした大きな
要因は,当時無名の若き化学者「リービッヒ
管」に名を残すユストゥス・リービッヒによ
る,学生実験を主体とした新しい教育制度の確
立であった 4
1824 年,パリでの留学からギー
セン大学の員外教授として招かれたリービッ
ヒ( 21 歳)は,大学に化学の共同実験室をつく
り,実験教育を植え付けるという,当時として
は画期的な構想の実現に着手した.学生は実験
教育を一定期間受けたあと,その技術を使って
教授の指導下でオリジナルな研究を行い,その
成果が認められた段階で学位が授与された.教
育と研究を統合したこの巧みな制度は 1830
代にギーセン大学に定着し,1830 年代から 70
年代にかけて,ゲッティンゲン大学1937 年 ),
ハイデルベルク大学1852 年),ベルリン大学
1871 年)など,ドイツ内の他の大学に飛び火
した 5
.ギーセン制度は,新しい時代の科学教
育の大衆化・職業化に大きな功を奏し,化学に
留まらず,生理学,植物学,動物学,そして物
理学など,様々な分野のカリキュラムに採用さ
れるようになった.こうした大学改革の効果も
あって,レントゲンが活躍した世紀転換期には,
化学に限ると,オリジナルな研究の 2/3 はドイ
ツから産出されていたという 5
.世界の科学の
主導権はドイツが握っており,この状況はレン
トゲンが没する 1920 年前後まで変わらなかっ
た.
 レントゲンが活躍した時代の政治関係の出来
事を,科学関係の出来事とあわせて,本稿末尾
の表 1にまとめた.
3 レントゲンの誕生と幼少期
ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン
Wilhelm Conrad Röntgen)は 1845 327 日,
ドイツ人織物商のフリードリッヒコンラッド
レントゲン44 歳)と,オランダ人のシャルロッ
テ・コンスタンツェ・フローウェイン39 歳)
の間の一人息子として,ドイツのレンネップ
(現在のレムシャイトの一部)で生まれた.レン
トゲンの両親はいとこ同士であり,当時のヨー
ロッパの田舎ではよくある近親結婚であっ
6
.レントゲンの生家は,1932 年以来,レ
ントゲン博物館になっている.レントゲン生誕
時においては,熱力学が最先端の科学であった.
たとえば,レントゲン誕生の前々年の 1843
には,ジェームズ・ジュール25 歳)が熱の仕
事当量を初めて決定している.1845 年は和暦で
は弘化 2年であり,レントゲンの誕生後 2日後
に,天保の改革に失敗した水野忠邦が老中を辞
職している.
1848 年.レントゲンは 3歳.この年はパリで
2月革命が勃発し,フランス王ルイ・フィリッ
プはイギリスに亡命した.ドイツでも改革運動
が急速に高まり,ヴィルヘルム 1世が憲法制度
など自由主義的な改革を約束する 3月革命が起
きた.ストライキなど,3月革命の余震でレン
トゲン家の織物工場も倒産の危機に直面し,レ
ントゲン一家は,オランダのアペルドールン
移住した 6
.この年の科学界では,若き天才
後のケルヴィン卿・ウィリアム・トムソン24
歳)が絶対温度目盛り(ケルヴィン単位)の原理
を発表していた.
1856 年.レントゲンは 11 .この年,ドイ
ツの数学者物理学者のユリウスプリュッカー
55 歳)が,有能な科学器械のエンジニア
9
私家版・レントゲンとその時代
X線分析の進歩 48
インリッヒ・ガイスラー42 歳)の協力を得て,
気体放電の本格的研究を開始し,7報の論文を
発表した 7
1942 年に発行された『国民科学文
庫 X線』
8に掲載された放電現象図を Fig.2
示す.Fig.2 の左の数字は管内の空気圧(単位は
mmHg torr「粍」はミリメートルと読む)
右側の数字は電圧(単位は V,電流は 2 mA
一定である.空気圧の変化に伴い,管内の発光
の様子が異なるのがわかる.この現象の研究が
X線発見の糸口となった.
4. レントゲンの青春時代
1862 年.レントゲンは 17 歳で,オランダの
ユトレヒト工業学校に入学した.レントゲンは
数学と幾何学に優れた学生で,化学も得意で
あった.しかし,物理学では不可をとっている 7
教師との折り合いは必ずしも良くなく,級友が
教師の似顔絵を落書したトラブルに巻き込ま
れ,卒業の数ヶ月前に退学処分をうけてしまっ
67
.この年は,X線の研究者にはおなじみ
1010 m 単 位( Å単位)を,スウェーデンの物
理学者アンデルス・ジョナス・オングストロー
48 歳)がはじめて用いた年でもあった.
1865 年.レントゲンは 20 歳.1月に大学入
学資格試験を受けたが不合格.やむなく大学入
学資格がなくても入学できるチューリッヒ工科
大学の機械工学科に進学した.ここで,エント
ロピー概念を提唱し,熱力学第 2法則を確立し
ルドルフクラウジウス43 歳)「工業物理」
の講義を聞き,物理への関心が高まったとい
67
.そして,クラウジウスの後任の,気体
の音速を測る「クントの実験」で有名なアウグ
スト・クント26 歳)に師事した.クントとレ
ントゲンは大変親しくなり,後にいくつかの大
学でレントゲンはクントの助手をつとめること
になる.
1866 年から1869 年まで,レントゲンは
チューリッヒのザイラーグラーベン通り 7番地
にある家に下宿していた.下宿の近くにレン
トゲン行きつけの小料理屋・「綠盃軒Wirtshaft
zum Grünen Glas)」 6があった.この店でレント
ゲンは,「綠盃軒」主人の 2番目の娘,アンナ・
ベルタ・ルードヴィッヒと知り合った.彼女は
後にレントゲン夫人となり,世界初の X線写真
―有名な右手の X線写真―のモデルになる.
 レントゲンが青春を謳歌していた 1867 5
月,後年レントゲンが第 1回の物理学賞を受賞
することになる「ノーベル賞」の産みの親・
ルフレッド・ノーベル34 歳)がダイナマイト
の初特許をイギリスで取得した.同年 6月,電
気文明の産みの親・マイケル・ファラデー(享
Fig.2『国民科学文庫 X線』8に掲載された,
放電現象の図
23
Fig. 2
10
私家版・レントゲンとその時代
X線分析の進歩 48
75 歳)が亡くなった.ファラデーも気体放
電の研究に関わっており,レントゲンが生まれ
12 年 前( 1833 年)「空気をうすくしていくと,
発光現象がきわめておこりやすくなる」ことを
見いだし,この発光の美しさを語りながら,陽
極付近の暗い部分(ファラデー暗部)について
報告している 79
.この年の 11 月には,レント
ゲンが扉をあけた放射線科学を大きく発展させ
た,後のキュリー夫人・マリア・スクォドフス
が生まれている.
1868 年.レントゲンは 23 歳.チューリッヒ
工科大学を卒業し,機械技師の免状を取得した.
1869 年.レントゲンは 24 歳.チューリッヒ
工科大学より「種々の気体の熱的性質に関する
研究」で博士号を取得した.秋には恋人・ベル
タと婚約した 6
.この年,ブリュッカーの弟子
ヨハン・ヒットルフ45 歳)が,陰極の前にも
のをおくと,その影が映ることを見いだした.
Fig.3 に前出の『X線』
8にある模式図を示す.
これは,放電が陰極から発していることの直接
的な証拠であった 67
.こうして放電現象の研
究は,ますます当時の物理学者の関心をひくよ
うになった.
5. 若き物理学者・レントゲン
1870 年.普仏戦争が勃発したこの年,レント
ゲンは 25 歳.クントが再びクラウジウスの後
任としてヴュルツブルク大学の教授になると,
レントゲンはその助手となった.婚約したばか
りのベルタとは遠距離恋愛である.普仏戦争に
はクラウジウスも非戦闘員として従軍し,膝に
重傷を負った.2章で述べた通り,この戦争は
プロイセンの圧勝に終わり,ドイツ帝国が誕生
した.以後,第一次世界大戦までの 40 数年間,
ヨーロッパから戦火が遠ざかり,芸術文化の華
が咲いた.
1872 年.レントゲンは 27 歳.普仏戦争の結
果,新しくドイツ領になったストラスブール大
にクントが異動したため,これに帯同して引
き続きクントの助手となった.この年,レント
ゲンはついにベルタとアペルドールンで結婚し
た.この頃からレントゲンは独立して実験を行
なうようになった.物理学者としてのレントゲ
ンは,きわめて慎重な実験物理学者であり,リ
プソンによれば,「本能的に,他人の出した結
果を,自分自身の手で確かめずにはいられな
かった」
10
タイプであった.後の X線の発見に,
この性格が大いに役立つことになる.
1874 年.後にレントゲンと同年に第 1回ノー
ベル化学賞を受賞することになる,オランダの
物理化学者・ヤコブス・ヘンリクス・ファント・
ホッフ22 歳)が四面体炭素原子の概念を提唱
したこの年,レントゲンは 29 歳.ストラスブー
ル大学において教授資格論文が認められ,大学
教授となる資格を得た.
1875 年.レントゲンは 30 歳.ホーエンハイ
ム農業学校で数学と物理の教授に就任した.こ
うしてレントゲンは,「良い,といって特別優
Fig.3『国民科学文庫X線』
8に掲載された
放電による影の模式図
Fig. 3
11
私家版・レントゲンとその時代
X線分析の進歩 48
れているわけではない物理学者として順当な学
問生活」
9に入った.
1876 年.レントゲンは 31 歳.実験を行う時
間がないことを理由に,助教授としてストラス
ブール大学に戻り,研究を再開した.ストラス
ブール大学で,レントゲンは主に物理定数の精
密測定を行い,気体や液体の圧縮率,旋光度な
どに関する 15 本の論文を発表した.
 この年,ヒットルフの実験をさらに進め,様々
な形の放電管や陰極を用いて放電実験を行っ
ていたオイゲン・ゴルトシュタイン26 歳 )が ,
陰極からでている線が陰極面に対し垂直に放
出されること,そしてその 性質は陰極の材料
によらないことを確認し 7
,この線を「陰極線
Cathode ray」と命名した.レントゲンは陰
極線について,まだ何もしていない.
6. ギーセン大学教授・レントゲン
1879 年.レントゲンは 34 歳.ストラスブー
ル時代の業績が評価され,「キルヒホッフの法
則」のグスタフ・ロベルト・キルヒホッフやド
イツきっての大学者・ヘルマン・フォン・ヘ
ルムホルツの推薦を得て,リービッヒゆかり
ギーセン大学の物理学の正教授に就任した.
ギーセン大学でのレントゲンは,カー効果や圧
電効果など,光学や電磁気学に関する研究を行
ない,18 本の論文を発表した.
 この年,「クルックス管(ヒットルフ管より,
さらに高電圧で動作する放電管)」で名高いイ
ギリスの物理学者ウィリアムクルックス47
歳)は,自分で改良した真空ポンプを使ってク
ルックス管を排気し,陰極線についての系統的
な研究を行った.クルックス管を使った多くの
業績の中に,「湾曲した陰極を内蔵したクルッ
クス管を用いると,陰極線を 1点に集めること
ができ,その焦点に白金箔をおくと白熱する」
ことの発見がある.この実験は,現代風にいえ
ば,白金への EPMA 実験である.クルックス
はこの白熱状態を写真撮影しようとしたが,写
真乾板がかぶってしまい,ついに撮影できな
かった.クルックスは「原因不明」としてなげ
てしまったが,この「かぶり」の原因は,明ら
かに白金からの X線放射である.クルックスに
もう一歩の洞察力があれば,X線発見の栄誉は
クルックスのものだった 7
1884 年.レントゲンは 39 歳.1880 年の母シャ
ルロッテ(享年 74 歳)に続いて,この年の 6
にレントゲンは父フリードリッヒ(享年 83 歳)
を喪った.レントゲンは父の遺産として 200
マルクを相続した 11
.当時の 1マルクはおよ
そ現在の 2000 円なので,200 万マルクは 40
円にあたる.後述のように,レントゲンは生涯,
金銭に淡泊だったが,その背景にはこの莫大な
相続金があった.
1886 年.レントゲンは 41 歳.夏の休暇中に
訪れたスイスの白十字ホテルで,ルードヴィッ
ヒ・ツェンダー33 歳)と出会い,ギーセン大
学の助手として採用した.ツェンダーはチュー
リッヒ工科大学の機械科出身で,レントゲンに
とっては大学の後輩である.ツェンダーは長く
レントゲンの有能な助手として働いただけでな
く,レントゲンの数少ない友人になった.レン
トゲンの伝記は,多くをレントゲンとツェン
ダーの文通によっている.
1887 年.レントゲンは 42 歳.レントゲン夫
妻には実子がなかったので,ベルタの姪・ジョ
セフィーヌ・ベルタ・ルードヴィッヒ6歳)
を養女とした.この年はまた,ドイツ生まれの
アメリカの物理学者アルバート・エイブラハ
ム・マイケルソン35 歳)とアメリカの化学者
12
私家版・レントゲンとその時代
X線分析の進歩 48
エドワードウィリアムズモーリー49 歳)が,
有名な「マイケルソン・モーリーの実験」を実
施した年でもあった.この実験により,マイケ
ルソンとモーリーの期待に反して,後にレント
ゲンが X線の解釈に適用しようとした「エーテ
ル」の実在が危うくなった.
7. ヴュルツブルク大学教授・レントゲン
1888 年.ドイツ皇帝ヴィルヘルム 1(享年
90 歳)とクラウジウス(享年 66 歳)が亡くなっ
たこの年,レントゲンは 43 歳.この年の 10 月,
「イオン独立移動の法則」や「コールラウシュ
ブリッジ」で名高いフリードリッヒ・コールラ
ウシュ48 歳)と恩師クント49 歳)の推薦を得
て,レントゲンはヴュルツブルク大学の教授に
就任した.当時のヴュルツブルク大学は「最
高水準の大学とはいえないにしても,なかなか
良い大学」
9であった.レントゲンは,かつて
クントの助手として務めた大学に,ツェンダー
を助手として帰ってきた 6
.ヴュルツブルク大
学の新築の物理学教室は 12階に研究室,実
験室,講義室があり,3階は教授(レントゲン)
一家の住まいになっていた 12
.後述の X線発
見は,この 2階にあるレントゲン専用の実験室
においてなされた.この実験室は 1928 年以来
現在まで,「レントゲン記念室」として保存さ
れている 6
 この年に発表した「均一電場内での誘電体の
運動により生じる電気力学的な力」という論文
で,レントゲンは,マクスウェルの電磁理論が
予言した「変位電流」について報告した.これ
は,レントゲンにとって,X線の発見に次ぐ大
きな業績である.「ローレンツ変換」「ローレン
ツ力」で名高い,オランダの理論物理学者・
ンドリックアントーンローレンツ35 歳)は,
これを「レントゲン電流」と命名した 12
.ヴュ
ルツブルク大学赴任当初のレントゲンは,この
ほかにも,圧力をかけた時の固体や液体の物性
(特に比熱)変化に関する研究を行っている.
1890 年.レントゲンは 45 .この年,アメ
リカ・ペンシルヴァニア大学のアーサー・ウィ
リス・グッドスピード30 歳)が,陰極線の放
電現象の撮影を友人の写真家に依頼した.写真
家から送られてきた写真には,放電現象ではな
く,「正体不明の 2つの丸い影」が写っていた.
彼はこの写真を原因不明の失敗写真としてしま
いこんでしまったが,5年後のレントゲンの報
告を聞いた時,この失敗写真が「X線写真」で
あり,「丸い影」は写真乾板の上にたまたま置
かれていたコインの影であることを悟った 7
グッドスピードは「良き敗者Good looser)」 で
あり,「私は 5年前に X線を発生させたが,発
見者としての優先権を主張するつもりはない」
と述べている 7
1894 年.レントゲンは 49 歳.5月に恩師ク
ント(享年 54 ), 9月に恩人ヘルムホルツ(享
73 歳)が亡くなり,日清戦争がはじまったこ
の年,レントゲンはヴュルツブルク大学の学長
に選ばれた.
 この年の 4月,ボン大学講師のフィリップ・
エドゥアルト・アントン・フォン・レーナルト
32 歳)が,厚さ 2.65 μmのアルミニウム薄膜
「レーナルトの窓」
13
をもった放電管(レー
ナルト管)を自作し,「陰極線を空気中に数 cm
取り出す」ことに成功した.透明な石英ガラス
が陰極線を透過させないのに,不透明なアルミ
箔が陰極線を通すことは,当時は非常に不思議
なことであった.また,当時の常識では,「粒
子が固体を通過する」ことは考えられないこと
だったので,レーナルトの発見は,陰極線=粒
13
私家版・レントゲンとその時代
X線分析の進歩 48
子説に打撃を与えるものであった.彼の仕事は,
多くの物理学者に注目された.1889 年のジュー
ルの死去(享年 70 歳)が象徴するように,この
時期の先端科学は,熱力学(熱)から気体放電
(電気)の科学に移っていた.
1894 5月,レントゲンもレーナルトの研究
に興味をもち,追試したいと思った.しかし,
レーナルト管のキーアイテムであるアルミ薄膜
を入手できず,すぐには着手できなかった.そ
こで,レントゲンはレーナルトにアルミ薄膜の
分与を依頼した.レーナルトはこれに応え,手
持ちのアルミ薄膜を 2枚送っただけでなく,こ
れをとりつける放電管の製作技術者ミュー
ラー・ウンケルもレントゲンに紹介した 6
こうして入手したレーナルト管を用い,レント
ゲンはレーナルトの実験やヒットルフ,クルッ
クスの実験を追試した.学長として多忙だった
せいか,追試実験の終了後,翌年の秋までレン
トゲンは放電実験を行っていない.
8.X線の発見
1895 年.レントゲンは 50 歳.10 月から放電
管の実験を再開した.これが翌月の X線の発見
へとつながった.セグレ 9はこう書いている.
1895 年の 11 月の初めまでに,レントゲンは
48 󰘬の論文を書いているが,これらは,今では
忘れられてしまった(筆者注「レントゲン電流」
は残っており,必ずしも正しくない).しかし
49 番目に,彼は黄金を掘り当てることになっ
たのである.
 放電実験再開にあたってのレントゲンの興味
は,レーナルトよりも多量の陰極線を空気中
に引き出すことにあったと考えられる 7
.レン
トゲンは,大型の誘電コイルを使用して電圧を
あげ,放電管の真空度を上げれば,熱で破損し
やすいアルミ箔のかわりに,ガラス窓を通じて
(すなわちレーナルト管だけでなくクルック
ス管からも)陰極線を引き出せると考えた(筆
者注:誤りである)X線8に記載されてい
た,このとき用いられたクルックス管の模式図
Fig.4 に示す.陰極線の検出には,シアン化
白金バリウムの蛍光板が用いられた.放電管内
で発生する蛍光は検出の妨げになるので黒い紙
で放電管全体が覆われた.
1895 11 8日の夕方,クルックス管に高
電圧を印加したレントゲンは,机の上の蛍光紙
に暗い線が表れたのに気付いた.蛍光紙が発光
するからには,何かがそれに当たっているはず
だが,その源がわからない.空気中を数 cm
か飛ばない陰極線によるものではないことは確
かである.蛍光紙は光をあてても発光するが,
クルックス管は黒いボール紙で覆われており,
既知の光は遮󰕮されていた.
 この思いがけない現象に驚いたレントゲン
は,蛍光紙を裏返したり,管から 2 m まで離し
たりしてみたが,蛍光は消えなかった.そこで,
レントゲンは,「目には見えないが光のような
もの=新種の放射線(レントゲンが最初の報告
で使った表現)」が管から出ていると結論した.
X 線の発見である.
Fig.4 を見ると,陰極線がガラスにあたり
Fig.4 『国民科学文庫 X線』8に掲載された,
レントゲンが用いた放電管の模式図
25
Fig. 4
14
私家版・レントゲンとその時代
X線分析の進歩 48
そこから X線が飛び出しているような印象を与
えるが,ガラスはすぐに帯電してしまうので,
そうしたプロセスは主なものではなかったろ
う.実際には,陽極にあたった電子の制動輻射
によって生成した白色 X線が,蛍光紙を光らせ
たものと推測される.
 後年1896 年頃?)
6
McClures Magazine
H. J. W. ダム特派員に,この発見の時に何を
考えていたかを質問されたレントゲンは,「考
えはしなかった.ただ実験をした」と答えてい
る.「自分の発見にたいへん驚いて,とても簡
単には信じられなかったので,新しい放射線が
本当にあるのだということを何度もくり返して
確かめなければならないと思ったから」
6それ
から 1ヶ月以上にわたり,誰にも自分の発見を
告げず,一人で仕事を続けた.ベルタは,レン
トゲンが何に夢中になっているのかわからな
かったので,だんだん心配になってきた.レン
トゲンが話したのはただ,「もし人がそれを知っ
たら,どうやらレントゲンは頭がおかしくなっ
たらしいとでも言いそうなことをやっている」
7
ということだけだった.
 蛍光板の発光線に気がついてから,レントゲ
ンは,いろいろな物質を管と蛍光紙の間に置い
てみた.「新種の放射線」は,1000 ページ以上
の分厚い本やガラスを透過した.厚さ 15 mm
のアルミ板も通過したが,どれほどうすくても,
鉛には遮断された.また,その放射線は,陰極
線とは異なり,磁気を受けても曲がらなかった.
これらの事実が,自分が扱っている放射線が新
種であることをレントゲンに確信させた.そし
て,この放射線に対して,数学の未知の数をあ
らわす「X」の文字を使ってX線という仮の
名前を与えた.後に,同僚の解剖学教授だった
アルベルト・フォン・ケリカーの提案がきっか
けで X線は「レントゲン」とも呼ばれるように
なったが,レントゲン本人は「レントゲン」と
呼ばれることを好まず,常に仮名の「X線」と
呼んでおり,結局は,この「仮名」が「本名」
となった.
 レントゲンは X線の検出についても,様々な
試みをしていた.X線は白金シアン化バリウム
以外の蛍光物質―たとえば,カルシウムやウラ
ンガラスなど―を発光させたが,熱作用を示さ
なかった.検出に蛍光板ではなく写真乾板を用
いると,より鮮明な撮影が可能になった.試み
に,管の前方に手をだすと,蛍光紙や写真乾板
には骨が写った.
 これら 7週間の昼夜を通じた実験の後,1895
12 28 日,レントゲンはヴュルツブルクの
物理学・医学協会会長にあてて 「新種の放射線
についてÜber eine Neue Art von Strahlen)」 と
題した論文を送った.この論文はすぐにヴュ
ルツブルク物理医学紀要Proceedings of the
Würtzburg Physico-Medical Societyに印刷され,
1896 114 日には英語版が早くもネイチャー
誌に,解説 14つきのニュース記事 15として
掲載された.
9. 疾風怒濤の 1
1896 年.レントゲンは 51 歳.レントゲンに
とって疾風怒濤の 1年がはじまった.論文印刷
直後の 1896 11日,レントゲンは,印刷
された論文の別刷に,「妻の薬指に指輪をはめ
て撮影した X線透過写真」や「金属ケースに
入った方位磁針の透過写真」など,数枚の X
写真を添付して,ルードヴィッヒ・ボルツマン
コールラウシュ,ケルヴィン󰓮,アンリ・ポア
ンカレなど著名な科学者に送付した(当時の物
理学者の総数は 1000 人程度だった 9
). X線写
15
私家版・レントゲンとその時代
X線分析の進歩 48
真という直観的にわかりやすい結果を伴ってい
た事,また,レントゲンが物理学で一定の成果
をあげていた事から,彼の論文は速やかに受け
入れられた.レントゲンの発見後,物理学者や
医学者がこぞってこの新しい研究に飛びつい
た.1896 年のうちに,X線についての論文数は
1000 を越した 9
X線の発見は,「画期的な発明・発見ほど予
測がつかない」ことの好例であった.物理学者
のリースはこう書いている.X線の効用は明
らかだとしても,見つけようとして見つけられ
るものではなかった.人体を透視する研究には
助成金がまず出なかっただろうし,たとえ出た
としても X線の発見とまではいかなかったはず
だ.大発見はいまなお私たちの意表をつく.
16
そうであればこそ,X線の発見は,一般社会に
も反響を呼び,世界中に大変な騒ぎをもたらし
た.別刷送付のほぼ同時期113 日)にはレ
ントゲンはドイツ皇帝ヴィルヘルム 2世の前で
X線写真撮影を実演した.この撮影の成功によっ
て,レントゲンは勲 2等プロイセン宝冠章を授
与された.それから 10 日おいた 123 日には,
地元のヴュルツブルクでも,物理学・医学協会
の会員を前にして(最初で最後の)公開講演会と
X線撮影の実演を行った.どちらの会合でも
レントゲンは拍手喝采の嵐で迎えられた 7
 レントゲンに X線発見のきっかけを与えた
レーナルトも,この時期にはレントゲンにお祝
いの手紙を送っている.「先生の偉大なる発見
が,多くの分野に著しい注目を呼んだので,私
のささやかな研究も脚光を浴びるようになりま
した.このことは私にとってもまた大変幸せな
ことです.また,先生によって新しい光線が発
見されたことは私にとって二重の喜びです.
7
一方,多忙のためか,レントゲンは論文中でも
公式に残された記録でも,レーナルトに礼を述
べなかった.このことが,レーナルトが憤懣を
つのらせるきっかけとなった.
X線発見に対するこうした騒動は,元来「一
人であること」を好んだレントゲンにとっては
不本意なものであった.1896 28日にツェ
ンダーにあてた手紙の中で,レントゲンはこう
書いている 7
.「 … 1月のはじめに別刷を発送す
ると,とんでもないごたごたが待ち構えていま
した.『ウィーン新聞Die Presseが先頭を切っ
「宣伝ラッパ」を吹き鳴らしました.それから,
あれやこれや続々とです.23日で,私は何も
かもにすっかりうんざりしました.いろいろな
記事の中では,私自身の研究は,もはや見る影
もなくなってしまいました.(手の)写真は,私
には,ただ目的のための手段にすぎなかったの
に,これがいちばん大事なことにされてしまっ
ています.だんだん,こんな馬鹿騒ぎにも慣れ
てきましたが,とにかく,時間を無駄にしてし
まいました.まるまる 4週間というもの,私に
はたったひとつの実験もできなかったのです.
他の人はみな仕事をしているというのに,私に
はそれが許されないのです.ここで,どんな目
茶苦茶なことが起こっていたか,とてもご想像
はつきますまい.
 上の手紙にある「時間を無駄にしてしまった」
というのは,レントゲンの偽らざる本心だった
ろう.世間の騒ぎとは裏腹にこの時期,実験物
理学者としてのレントゲンは苦しんでいた.X
線の正体がつかめなかったからである.とりわ
X線が,光のように写真乾板を感光させる
のに,光とはちがって反射や屈折,回折をおこ
さないことは大きな󰕗であった.「新種の放射
線について」の結びはこうである.「この新し
い放射線は,エーテルの縦波によるものとはい
16
私家版・レントゲンとその時代
X線分析の進歩 48
えないだろうか.私は研究を進めるにつれて,
いっそうこの考え方に信頼をよせるようになっ
ていることを認めざるをえない.…しかし,も
ちろん,私は,この説明にはさらなる確証が付
け加えられねばならないことは十分に心得てい
る .」
7
「エーテル」は,当時は「電磁波や光の
媒体」を意味していたから,今の言葉でいうと,
レントゲンは X線を「音波のような粗密波」と
推測したわけである.現代から見ると,レント
ゲンの推測は奇妙に思えるかもしれないが,「光
が音と同様の縦波」という仮説は,光学史上で
イザック・ニュートンに並ぶ権威であった
リスティアーン・ホイヘンス「音と同様に光は
エーテルの中を球面状に,しかも波動状に伝わ
る」
17
以来,伝統的なものであった.まして,
レントゲンは,音響学の泰斗,クントの愛弟子
であった.しかし,X線の正体は電磁波―横波
―であったので,「さらなる確証」はついに得
られなかった.マックス・フォン・ラウエ等に
よる 1912 年の X線回折像の撮影までの 16 年間,
X線は神秘のベールにつつまれていた.たとえ
ば,「ローランド半径」に名を残す,アメリカ
の物理学者ヘンリー・オーガスタス・ローラン
1896 年,「我々はそれX線)について何も
知らないのだ」とコメントしている 18
1896 120 日,ポアンカレはレントゲン
から送付された X線写真をフランス科学アカデ
ミーの例会で会員に見せた.会員のひとりであ
アンリ・ベクレル,蛍光と X線の間の関
係に注目し,「蛍光物質が X線を出すかどうか」
を調べる実験に着手した.成果はたちまちあら
われ,ウランから,ウランの燐光とは関係のな
い,別種の放射線を 3月に見いだし「ベクレ
ル線」と命名した.
 この年の 3月,X線に関する第 2報の論文を
提出したレントゲンは,ベルタとともに,安息
を求めて南イタリアに旅行した.ベルタは,ア
メリカに移住していたレントゲンの従姉妹ルイ
ゼにこう書いている 6
「ウィリーはどうして
よいかわからぬくらい多忙な日々です.ルイゼ
さん,本当に有名人となると大変なんですね.
…論文が発表されるやいなや,私どもの家庭の
安らぎはなくなってしまいました.…(レント
ゲンが)彼を悩ますたくさんのつまらぬものに
もめげず,自分の研究理念を守り続けているの
には感心しております.しかし今,休息をとら
ねばならない時だと思いまして,23週間イタ
リアへの旅に出かけることにしました.…毎日
私は,夫を丈夫で逞しい男に仕立ててくれた神
様に感謝しておりますが,この緊張も彼にとっ
て耐えられなくなる日がきっとくることを心配
しております.しかし,安息はつかの間だった.
帰国した 4月以降,レントゲンはバイエルン宝
冠章など世界各国から様々な賞が贈られ,多く
の学会の名誉会員に推されるなど,多忙な日々
が続いた.
10. 嵐の後
1897 年.レントゲンは 52 歳.この年の 3月,
レントゲンは自身最後の X線の論文「X線の特
性に関するその後の観察」をプロイセン科学会
に提出した.しかし,この発表は,第 1報ほど
のインパクトは与えなかった.この年には,ジョ
ゼフ・ジョンJ. J.トムソン41 歳)による
「素粒子としての電子の発見」,イギリスの物理
学者アーネスト・ラザフォード26 歳)による
α線と β線の発見」など,X線の続報」を霞
ませるいくつもの大発見があったからである.
カール・フェルディナント・ブラウン47 歳)
が陰極線管を改造して,オシロスコープを開発
17
私家版・レントゲンとその時代
X線分析の進歩 48
するなど,陰極線管の研究も基礎から応用へ急
速に転化していた.
1898 年.ビスマルク(享年 83 歳)が亡くなっ
たこの年,レントゲンは 53 歳.この年,キュリー
夫妻がウランだけでなくトリウムも「ベクレル
線」を出すことを発見し,「放射能」という用
語をつくった.さらに,新種の放射線元素とし
7月ポロニウム,12 月にラジウムを発見し
た.これらの発見で,キュリー夫妻はベクレル
とともに,1903 年のノーベル物理学賞を受賞す
ることになる.前年から立て続けに大発見が続
いたこともあって,X線への熱狂は急速に冷め,
このころは X線についての発表論文数は年間で
30 本程度になっていた 18
1899 年.レントゲンは 54 .この年,レン
トゲンはザクセン王国にあったライプツィヒ大
から教授として招聘されたが,バイエルン公
国に忠誠を誓ってこの要請を断った.これが
きっかけで,レントゲンはバイエルンの枢密顧
問官に任ぜられた 6, 12
.この枢密顧問官に給付
される年金が,最晩年のレントゲンの生活をか
ろうじて支えることになる.
1900 年.レントゲンは 55 歳.バイエルン公
から,バイエルンの首都ミュンヘンにあるミュ
ンヘン大学へ実験物理学の主任教授として赴任
するよう要請された 6
.断りきれず,レントゲ
ンは,気の進まないままミュンヘン大学に異動
した.
 この年は,ドイツの物理学者マックス・カー
ル・エルンスト・ルートヴィヒ・プランク42
歳)が量子仮説を提唱した年である.時代の先
端は急速に,「電気」から「量子(原子・素粒子)
に移ろうとしていた.プランクの研究を境に,
レントゲンが長年研究してきた物理学1900
以前のすべての物理学)「古典物理学」になっ
てしまった.栄光の年から 5年もたたないうち
に,しかも新天地に「栄転」したと同時に,レ
ントゲンは,「時代遅れの物理学者」になって
しまったのである.以下はノーベル賞後のレー
ナルトについて述べた文章 19であるが,ほぼ
そのままレントゲンをはじめとする「古典物理
学に従事した実験物理学者」のほとんどにあて
はまる文章だと思う.「…この時以降,彼の研
究はもはや物理学の最先端ではなく,また彼は
他の人々が行った重要な発見を理解できなかっ
たように見える.…彼は理論物理学(量子力学)
に関しては特にひどくおくれをとっていた.…
彼自身の経験から,彼はこの分野とは距離を
保っていた.…彼は物理学に従事する上での専
門職業人の掟には,ゆっくりと,辛抱強く,そ
して注意深い反復的研究が含まれている,と信
じていた.他の人々は知識の新しい領域を切り
開く競争の方をより重要視していた.…彼には,
物理学研究のペースが急激に速くなっており,
また彼の物理学的実在についての概念は時代遅
れになっていた.
 ミュンヘン大学でのレントゲンは,結晶の圧
電効果など,それまで手がけていた問題に戻り,
7報の論文を書いたが,いずれも後世に残るも
のではなかった.また,レオ・グレッツという
物理学教授と,作業室や実験器具の使用法につ
いて,(今から見ると)つまらない争いも起こし
ている:グレッツは「温度計のようなわずかな
器具を使うにもレントゲンの許可を求めなけれ
ばならないなどは,学生同然の扱いであり,と
ても認められない」と不満を表明した 20
.レ
ントゲンの几帳面さが,大学組織の運営では悪
く作用してしまったのかもしれない.やや時代
遅れの研究とやや官僚的な大学運営.後世から
眺めると,ミュンヘンのレントゲンは,残念な
18
私家版・レントゲンとその時代
X線分析の進歩 48
がら,もはや「過去の人」であった.
11. ノーベル賞の受賞と
    レーナルトの非難
1901 年.レントゲンは 56 .年齢について
のこんなコラムがある.「人間 50 年とはよく言っ
た.…今も昔も,人間は 50 年なのではないか.
歯が抜け,目はかすみ,髪がぬけるから,古人
はいやでも老年が来たことを思い知った.
21
その 50 歳で大仕事をしてから 6年,レントゲ
ンに1回ノーベル物理学賞が贈られた.
 これまで概観してきた通り,X線の発見は陰
極線の研究の積み重ねなしでは,ありえないも
のであった.また,レントゲンがいなくても,
同時期に他の誰かが発見した可能性は高かっ
た.実際,クルックス管を使う部屋では,封を
切らなくてもしばしば感光してしまうため,感
光材料を室外に置かねばならないことは当時よ
く知られていた 22
.こうしたことから,1
ノーベル賞を審議したスウェーデン王立科学院
に附属している物理学部門の委員会は,「レン
トゲンとレーナルトの二人で等分に賞を与える
べきである」と答申していた 7
.ところが,科
学院では「ノーベル賞はひとりの候補者に与え
られるべきである」という意見が述べられた 7
「誰か一人」となると,「感光材料の劣化」「未
知の放射線による」という,決定的な着想をし
たレントゲンに軍配があがる.また,1901 年当
時,X線の正体は󰕗Xのままであったが,X
線写真の医学への応用は迅速であり,その貢献
は絶大であったことも,はじめて手の X線写真
を測定したレントゲンへの単独受賞を後押しし
た.
 このレントゲンへの単独のノーベル賞授与を
きっかけに,レーナルトは,自身も「陰極線の
研究」で第 5回のノーベル賞を受賞したにもか
かわらず,生涯にわたってレントゲンへの非難
を交えながら,X線発見に対する自分の貢献を
アピールするようになった.たとえば,1905
のノーベル賞記念講演の中で,レーナルトは以
下のように述べている 7
「私が開発した放電
管によって加速された陰極線が白金の大きな陽
極面に衝突したとき,陰極線は X線に変換され
る.したがって,この放電管を使ったとすれば,
観測者の注目は内側から外側に向けられ,わず
かな注意と観察によって,X線の発見は自動的
にあらわれるものと私には思える.」また,レー
ナルトはレントゲンが没した 1923 年頃からナ
チズムに傾倒していき,その結果1945 年に
83 歳の高齢で,ニュルンベルク裁判で尋問され
る羽目になったが,そこでも次のような証言を
している 7
「レントゲンは X線誕生における
助産婦にすぎない.この助産婦は最初に子供を
世の中に紹介できる幸運をもっている.…私こ
そが X線の真の産みの親である.…X線の発見
はレントゲンのせいではない.それは単にレン
トゲンの膝の上に産み落とされたに過ぎない.
レントゲンが行った全てはボタンを押すことで
しかなかった.なぜなら,全ての基礎研究は私
によって用意されていたからである.…私は常
に慎み深く,やたらに論文をまとめるようなこ
とはしなかった.私はレントゲンの偉大な発見
について賞賛した手紙を送った.そして,私の
放電管と私に多くの恩恵を受けたという感謝の
返事をくれると思ったが,レントゲンからは何
の挨拶もなかった.」こうしたレーナルトの非
難について,レントゲンは「X線を発見してす
みませんでしたと謝れ,ということかな」と漏
らしている 23
19
私家版・レントゲンとその時代
X線分析の進歩 48
12. 黄昏のレントゲン
1904 年.レントゲンは 59 歳.レントゲンは
ミュンヘン近くのワイルハイムに,休暇用の別
荘を購入した.晩年のレントゲンは,もっぱら
ここで過ごすようになる.
1906 年.レントゲンは 61 .この年,ミュ
ンヘン大学の物理学教室に新進気鋭の物理学
者,アルノルト・ヨハネス・ゾンマーフェルト
38 歳)が加わった.ゾンマーフェルトはレン
トゲンが苦手の量子力学で成果「ボーア・ゾン
マーフェルトの量子条件」
24が有名)を挙げた
だけでなく,才能ある若者を発掘して伸ばす能
力に長けた教育者として,ヴェルナー・ハイゼ
ンベルクヴォルフガング・パウリを含む 4
のノーベル賞受賞者を育てあげた.さらに 1909
年には,プランク研のラウエがゾンマーフェル
ト研に助手として加わった.ラウエの X線回折
に関する研究は,X線回折法の「エバルト球」
に名を残すパウル・ペーター・エバルト(当時
ゾンマーフェルト研の院生)の博士論文をヒン
トに行われたものであった.このように,ミュ
ンヘン大学物理学教室の世代交代は着実に進ん
でいった.
1914 年.前年にヒトラー24 歳)がレントゲ
ンの住むミュンヘンに移住してきて,6月に第
一次世界大戦が勃発したこの年,レントゲン
69 歳.ドイツのベルギー侵略に対するフラ
ンス・ベルギーの抗議に答えた 93 人のドイツ
知識人の戦争支持宣言:93 人のマニフェスト
Manifest der 93)」 25にプランクやレーナルト
等とともに署名し,ドイツとの連帯を表明した.
X線発見の功により各国から贈られた金銀の賞
杯も政府に供出したという 6
.この年に,イギ
リスの物理学者ヘンリー・グウィン・ジェフ
リーズ・モーズリー27 歳)が特性 X線のモー
ズリーの法則を発見,原子番号の概念を確立し
た.しかし,翌年,ガリポリの戦いで戦死し,
受賞確実と言われたノーベル賞を逸した.この
年は,イギリスのブラッグ父子ウィリアム・
ヘンリーブラッグウィリアム・ローレンス
ブラッグが結晶の回折を使って X線の波長を
はじめて決定した年でもあった.また,11 月に
はヒットルフ(享年 90 歳)が亡くなっている.
1919 年.ドイツの敗戦で終幕した第一次世
界大戦に関するパリ講和会議が開催されたこの
年,レントゲンは 74 .敗戦の結果,ドイツ
は海外植民地をすべて失い,レントゲンが研究
者としてデビューしたストラスブール大学のあ
るアルザス・ロレーヌ地方Fig.1 参照)はフラ
ンスに返還された.この年にレントゲンは,最
後まで愛国者だったことを示す手紙を従姉妹・
ルイゼにむけて書いている「わが祖国ドイツは
復讐の怨念にかられた敵国フランス,イギリス
から絶えず屈辱を受けねばなりません.奈落の
底まで陥れようとするやり方には,まったく我
慢ができません.
6
 この年の 10 31 日,長年連れ添ったベルタ
79 歳で亡くなった.Fig.5 に表紙カバーを示
した 1942 年発行の『小説 レントゲン』
26
Fig.5 『小説 レントゲン』26の表紙と背表紙
26
Fig. 5
20
私家版・レントゲンとその時代
X線分析の進歩 48
中で,伝記作家はこう書いている「…妻の死
はこの巨人を,この賢者を無限の悲しみに彷徨
させた.彼は夫人が決して亡き人の数に入って
はいないかの如く生活した.妻の写真の前で,
毎日の出来事を語り,手紙が来れば読んで聞か
せるのであった.故人の誕生日が来ると,あた
かも妻が生けるかの如く祝った―写真の前で,
夫人の肘掛椅子に座りながら.」この年の 4
には,クルックス(享年 87 歳)も亡くなってい
る.
1920 年.ヒトラー31 歳)が「国家社会主義
ドイツ労働者党(ナチス党)」を結成したこの
年,レントゲンはミュンヘン大学を退職,引退
した.レントゲンは,莫大な遺産を相続してい
たこともあり,金銭には淡泊だった.ノーベル
賞の賞金も,ヴュルツブルク大学に全額を寄付
している 6, 7
.また,レントゲンは「科学の発
展は万人に寄与すべきである」と考え,X線に
関し特許等によって個人的に経済的利益を得よ
うとはしなかった 6, 7
.たとえば,当時ドイツ
最大の電機会社であった Allgemeine Elektricitäts-
GesellschaftAEGGeneral Electricity Company
社の社長がレントゲンを訪れ,レントゲンの愛
国心に訴え,大金を積み,整備された研究室の
提供を申し出て,X線の特許の譲渡を求めたが,
レントゲンは「特許など思いもよらない.その
必要もない.自分の発見は全人類のもの.決し
て自分の研究を独占しようとは思わない」と
断っている 27
 こうしたレントゲンの金銭への淡泊さは,し
かし,彼の引退生活では裏目に出てしまった
1919 1月に 1ドル 1.95 マルクだった為替相
場は 1921 7月には 18.26 マルクになっていた.
資産価値は約 1/10 に下落した 28
.これだけで
も晩年のレントゲンには大きな痛手だったが,
この下落は,暴落の序章にすぎなかった.1922
1月には 1ドル 45.69 マルク,7月には 117.49
マルク,1923 1月には 4281 マルク,8月には
110 万マルク,9月には 23500 万マルク,11
月にはついに 1ドル 5220 億マルクに達した 28
天文学的なハイパーインフレーションである.
レントゲンの数 10 億円の資産は,1923 1
には数 10 万円の価値しかなくなっていた.レ
ントゲンは資産を使い果たし,物価とスライド
する年金でかろうじて暮らしていた 6
1923 年.飢餓暴動と物価高騰暴動が全国いた
るところに発生する中,210 日午前 830
分に,レントゲンは直腸癌のため,ミュンヘン
において生涯を閉じた.享年 77 .墓はギー
センの旧墓地Alter Friedhofにある.遺言に従
い,レントゲンの私物や科学装置は全て廃棄さ
れた 29
 この年は,アーサーホリーコンプトン31
歳)がコンプトン効果を発見し,粒子としての
X線の性質を明らかにした.この研究によって
コンプトンは,1927 年にノーベル賞を受賞し
レントゲン1901 年),レーナルト1905 年 ),
ラウエ1914 年)ブラッグ父子1915 年)バー
ク ラ( 1917 年)と続いた,X線関係のノーベル
物理学賞ラッシュ」の末尾を飾った.その一方
で,2月に「マイケルソン・モーリーの実験」
のモーリー(享年 85 ), 3月に「ファンデル
ワールス力」のヨハネス・ファン・デル・ワー
ルス(享年 85 歳)など,レントゲン世代の科学
者は続々と物故していった.
 この年の 9月には日本で関東大震災が発生
し,11 月にはヒトラー34 歳)のナチス党など
がミュンヘン一揆をおこした.世界には,第二
次世界大戦の暗雲が漂ってきており,レントゲ
ンが「偶然に」道を拓いた放射線―原子や素粒
21
私家版・レントゲンとその時代
X線分析の進歩 48
子の科学が「原子爆弾」という最悪の形で日本
に災いをなすまで,22 年を残すのみとなってい
た.
13. おわりに
11 章で紹介したレーナルトによる非難 7
ためだろうか,20 世紀の前半,レントゲンは「偶
然の発見者として罵られ,僥倖な機械屋とまで
󱶾まれて」
26いたらしい.その反動か,1942
の伝記作家は「ひたすら大自然の神秘の扉をた
たく,素朴にして謙虚な学究にして,稀に見る
真󳘩にして冷徹な大物理学者」
26とレントゲン
をもちあげている.筆者のレントゲンに対する
イメージは,両者の中間で「やや人付き合い
が苦手な,優秀だが,天才肌というよりは生真
面目なタイプの科学者」というものである.何
といっても第 1回ノーベル賞受賞者である.レ
ントゲンが優秀な科学者であることには疑いの
余地はない.しかし,表 1で示したように,同
時代にはボルツマンやケルヴィン󰓮,メンデ
レーエフやギブス,J. J. トムソン,ラザフォード,
クラウジウス,ポアンカレ,ローレンツ,プラ
ンク等がいた.そして,すぐ後の世代にはラウ
エ,ボーア,モーズリー,シュレーディンガー,
ハイゼンベルク,パウリ等がいた.こうした科
学者たちに対しても,レントゲンを「稀に見る」
とまで評価できるか,ましてレントゲン自身が
そう思っていたかは,微妙な問題と思う.
 加藤は,自らのレントゲン紹介文のおわりに,
「大科学者であるとはいえ,100 年前の一個人
を回顧してみることにどれ程の意味があるか,
あるいは意見が別れることかと思います」と記
している 2
.本稿の執筆において,筆者もそう
した思いがよぎらないではなかった.しかしそ
の一方で,山本夏彦の次の言葉も脳裡をさらな
かった.「…私は古本の中で死んだ人の紹介で
死んだ人を知ったのである.それは生きている
人の紹介で,生きている人を知るのと同じであ
る.したがって私は生きている人と死んだ人を
区別しない.…生きているからといって必ずし
も生きているとは限らない.死んだからといっ
て必ずしも死んだとは限らない.人は生きてい
る人と死んだ人の区別をしすぎる.
30山本夏
彦に倣って,レントゲンを「生きている先輩」
とみなしながら,本稿を振り返ってみると,X
線の発見がレントゲン個人にとって,批判者が
いうほど「僥倖」であったかは,正直に言って
疑問である.誰か他の人が X線を発見し,それ
を嬉々としてヴュルツブルク大学で追試してい
た方が,レントゲンにとっては幸せではなかっ
たかと思ったりもした.
 本稿がレントゲンや X線,科学史や物理化学
に興味のある人に参考になれば幸いである.最
後に,本稿を注意深く読んでいただいた上,人
文科学の視点から多くの貴重なご意見,ご助言
をいただいた,匿名の人文系研究者氏に厚く御
礼申し上げます.
参考文献
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18 札野 in 大野 誠,小川眞里子 編著: 科学史
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19 アラン D. バイエルヘン,常石敬一  ヒトラー
政権と科学者たち ,岩波現代選書,1980),( 岩
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20 ラッセル マコーマック,小泉賢吉郎 訳: ある
古典物理学者の夜想 ,1985(培風館)
21 山本夏彦: 変痴気論 ,中公文庫,1979),( 中
央公論新社)
22 . ヴェ . ホダコフ,野中昌夫 訳: 科学的発見
とはなにか ,科学普及新書,1967(東京図書)
23 アレクサンダー コーン,田中靖夫 訳: 科学の
発見と逸機の科学史 ,1990(工作舎)
24 河合 潤: 量子分光化学―分光分析の基礎を学
ぶ―,2008(アグネ技術センター)
25 https://de.wikipedia.org/wiki/Manifest_der_93.
26 常木 実: 小 説 レントゲン ,1942(天然社)
27  特許の文明史 ,新潮選書,1994),( 新
潮社)
28 斉藤 皙,八林秀一,鎗田英三 編:20 世紀ドイ
ツの光と影 歴史から見た経済と社会 ,2005) ,( 󰘚
書房)
29 Robert W. Nitske: The Life of W. C. Röntgen,
Discoverer of the X-Ray, (1971), (University of
Arizona Press).
30 山本夏彦: 世は〆切 ,文春文庫,1999),( 文
藝春秋)
31 アイザック アシモフ,小山慶太,輪湖 共訳:
 アイザック・アシモフの科学と発見の年表 
1996),( 丸 善 ).
32 「世界の歴史」編集委員会 編: もういちど読む
山川世界史 ,2009(山川出版社)
23
私家版・レントゲンとその時代
X線分析の進歩 48
1「レントゲンの時代」の出来事
レントゲン関係の事例は主に文献 2367に,科学史関係の事例は文献 45912172331 に,政治関
係の事例は文献 32 による.
西 暦 政治関係の出来事 科学関係の出来事
1824 リーヒ,ギーセン大学に赴任・ルヴン󰓮,
キル ヒホ ッフ 誕 生
1829 ケクレ 誕 生
1830 フランス 7月革バ ベ ッ ジ『 イ ギ リ ス に け る 学 の 退 の 原
因に する
1832 ク ル ック ス 誕 生 ・ カルノ ー 死
1833 ファラデーの気体放電実験とファラデー暗部の
発 見 ・ノ ー ベ ル 誕
1837 イ ギ リス で ヴ ィクトリ ア 女 王 が 戴 フ ァン ・ デ ル ・ ワ ー ルス
1838 モーリー
1839 クント , ギブ ス 誕 生
1840 アヘン戦争(∼1842・フリードリヒ・ヴィル
ヘルム 3世死去
コールラウシュ誕
1843 ジュール, 熱の 仕 事 当量 を決 定
184 4 ボ ル ツ マン 誕 生 ・ドル トン死
1845 レント ゲン 誕 ・ 電 気 回 路 に お ける キル ヒホ ッフ
の法則発見
1847 ヘ ルム ホ ル ツ, 熱 力 学 第 1則を確立
1848 フランスで 2 ・ドイツ 3月革ケル ヴィン󰓮 , 絶 対 温 度 の 提 唱・ロ ーランド 誕 生
ベル セ リウス死 去
1850 ンス国王ルイ死去 ゴ ルト シュ タイ ン, ル シ ャト リエ 誕 生
1852 ベ クレル,マイケルソン,ファント・ホッフ誕 生
1853 クリミア戦争(∼1856・黒船来航 ーレン ツ , オストヴァルト誕 生 ・ドップラ ー死 去
1854 クラウジウス, エントロピー概 念を唱し,熱力
学第 2則を 立・ポアン カレ生・オーム
1856 プリッカーとガイラー,気体 電を研
J. J. ト ムソン 誕 生 ・ア ボ ガド ロ 死 去
1859 次 イタリ ア 独 立 戦 争 ・ 安 政 の 大 獄 ・ ヴィル
ルム 2世 誕 生 ・メッ テル ニ ヒ 死 去
け る キ ル ッ フ の 見・
P. キュリ ー 誕 生
1862 ビスルク,プロセン王国宰相に着任(∼1890レ ーナルト, H. ブ ラッグ 誕 生
186 4 ネ ルンスト 誕 生
1865 ケクレ, ベン ゼ ン 環 を 着 想
1866 普墺戦クント, クント 管 の 実 験
1867 大政奉還 ノ ー ベ ル, イ ギ リス で ダ イナ マ イト の 特 許 取 得・
キュリー夫 ・ファラデ
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私家版・レントゲンとその時代
X線分析の進歩 48
西 暦 政治関係の出来事 科学関係の出来事
1868 ル ード ヴィッヒ 1世死去・明治天皇即位 ゾ ン マ ーフ ェ ルト 誕 生 ・ プ リュッ カ ー 死
1869 ットル フ, 陰 極 線 を 研 究・メ ンデ レ エ フ, 元
素周期表を発表・ネチャー誌創刊
1870 普 仏 戦 争( ∼ 1871ラ ザ フォ ード 誕 生
1871 ヴィ ル ヘ ルム 1世ド イツ皇 帝 に 即 位 パストゥール『 フランス 科 学に ついての 省 察 』・バ
ベッジ 死 去
1873 ナポオン 3世死去 ファン・デル ・ワールスの 状 態 方 程 式・リービッ
ヒ死去
1874 ファントホッ,四面体炭素原子の概念を提唱
オングストロ ーム死 去
1875 ールラウシュ , イ オ ン 動 の 則 を 見・
クル ックス管 の 開 発
1876 ゴルタイ「陰極線」の命名・ギブス
化学熱力学を確
1877 ヴィクトリ ア 女 王 イ ンド 女 帝 に 即 バークラ誕
1879 ルッの真空放電実験・エ,アンシ
タイン 誕 生・マックスウェル , ガイスラ ー死 去
1882 ギブス・ヘルムホルツの式・ヴェーラー死去
1885 パ スト ゥ ール , ワ ク チン に 成 功 ・ ボ ーア 誕
1887 マイケ ルソ ン・モー リー の 実 験・モ ーズ リー , シ ュ
レ ー ディン ガ ー 生・ キ ル ヒ ホ ッ フ 死 去
1888 ヴィル ヘ ルム 1世死ントゲン,変位電流を発見・クラウジ ウス死 去
1889 ヒトラ ー 誕 生 ネ ルンスト の 式 発 表 ・ジ ュー ル 死 去
1890 ビ スマルク 解 任 L. ブラ ッグ 誕 生
1892 プ トン, ド・ ブ ロイ 誕 ホ フマン, ジ ーメ
ンス死 去
1894 日 清 戦 争( ∼ 1895レ ーナルト, 陰 極 線 を 研 究・クント, ヘルム ホル
ツ死去
1895 レント ゲ ン, X 線 を 発 見・ パ ストゥ ール 死 去
1896 レル,放射能(ベクル線)を発見
ケル 誕 生 ・ノー ベ ル 死
1897 J.J. トムソン, 電子 を 発 見・ラザ フォード,α線と
β線を発見・ブラウン オシロスコープを開
1898 ビス マルク死 去 キュリー 夫 妻 , ポロ ニ ウムとラ ジ ウムを 発 見 ,「 放
射能」と概念を提唱
1900 プラ,量子仮説を提唱・コールラウシュ,平
方 根 則 を発 見 ・パウリ 誕 生
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私家版・レントゲンとその時代
X線分析の進歩 48
西 暦 政治関係の出来事 科学関係の出来事
1901 ヴィ クトリア 女 王 死 去 トゲンーベル物理学・フ ァ ン ト・ ホ ッ フ
ノーベル化学賞フェルミ,ハイゼンベルク誕生
ロ ーランド 死 去
1902 日英同盟 ロ ー レン ツ, ノ ー ベ ル 物 理 学 賞 ・ ディラ ック 誕 生
1903 ベ クレルとキュリー 夫妻 , ノーベ ル 物理 学 賞・オ
ーガー 生・ギブス死
1904 日 露 争( ∼ 1905オッペンハイマー,ガモフ誕生
1905 レ ー ナルト, ノー ベ ル 物 理 学 賞
1906 ネ ル ン ス ト ,熱 3則を確立J. J. ムソン,
ノー ベル 物 理 学 賞・ P. キュリ , ボル ツ マン死 去
1907 ケル ヴ ィン 󰓮 , メ ン デ レ ー エフ 死 去
1908 ラザ フォ ード,ノー ベ ル 化学 賞・ベクレル 死 去
1910 ファン・デル・ワールス,ノーベル物 学賞・コー
ルラウシュカニッツァーロ死
1911 キュリー夫 人 , ノーベ ル 化学 賞・ファント・ホッ
フ死 去
1912 明治天皇崩御 ラウエ等, X線 回 折像 の 撮 影 に成 功 ・ポアン カ
レ死去
1913 ボ ーア, 子 模 型 を
1914 第 一 次 世 界 大 戦( ∼ 1918モーズリーの法則発見・ブラ父子,X線の波
長 を 決 定 ・ ラ ウエ , ノ ー ベ ル 物 理 賞 ・ヒ ットル
フ死 去
1915 ブラグ父子ーベル物理学賞・モーズリー死
去( 戦 死 )
1916 フ ラ ン ツ・ヨ ー ゼ フ 1, バ イエ ルン 国 王 オ ット ー
1世 , モ ルトケ 死 去
ボ ーア・ ゾ ン マ ーフ ェ ルト の 量 子 条 件 ・アイ ン
シュ タイン, 一 般 相 対 性 理 論 を 発 表
1917 ロシア バー クラ, ノー ベ ル 物 理 学 賞
1918 ドイツ革命 プ ランク, ノー ベル 物理 学 賞・ファインマン 誕 生
ブラ ウン死 去
1919 パリ講和会 クル ックス 死 去
1920 国際連盟成立・ラー,ナチス党結成 ネルン スト, ノ ー ベ ル 化 学 賞
1922 ワシントン会議 ・ムッソリーニ,タリア王国首
相 に 就任 ・ソ ビエト 連 邦成
ボ ーア, ノ ー ベ ル 物 理 学
1923 ルール占領ンヘン一揆・関東大震災 ンプン効果発見モーー,フデル
ルスレント ゲ ン死 去
1927 コ ン プトン, ノー ベ ル 物 理 学
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  • A A C Swinton
A. A. C. Swinton: Nature, 53, 276 (1896).
The Life of W. C. Röntgen, Discoverer of the X-Ray
  • Robert W Nitske
Robert W. Nitske: The Life of W. C. Röntgen, Discoverer of the X-Ray, (1971), (University of Arizona Press).